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Saturday, January 8, 2011

教育美術連載 原稿(2011年1月号): 日本の鑑賞教育 vs. 米国のヴィジュアルリテラシー教育

2011年新年号原稿(下書き)をここにご紹介。今回で10回目。いよいよ私の最後の原稿が近づいてきました。次回2月号は飛ばして、3月号が最後の原稿となります。これは下書き原稿でイメージ抜きのものですので、最終原稿の方はぜひ「教育美術」雑誌をお買い求めいただき、ご覧になっていただければと思います。感謝。(今回は少々わがままを言わせていただきいつもよりちょっと長めです ^_^)

図1:図録29頁下段左「三つの国旗」米国大学生作品(コラージュ)Jasper Johns
図2:図録29頁下段右「四つの旗」」クウェートからの留学生作品(コラージュ)

4コマアート巡回展示会作品紹介(2011年1月号):
日本の鑑賞(感性)教育 vs. 米国のヴィジュアルリテラシー教育*
December 3, 2010
Masami Toku

2011年謹賀新年。今年最初のそして10回目のトピックは「鑑賞」、日米の鑑賞教育への理念そしてそのアプローチの相違について。

カリフォルニア州立大学チコ校で「芸術鑑賞学」のコースを受け持って今年で12年になる。このコースは米国において一般教養の一つとして、美術専門外の学生を対象に「芸術鑑賞=ヴィジュアルリテラシー (Visual Literacy)」教育コースとして定着しており、多くの学生が取っている。私の教えるコース「Arts100: Art Appreciation-Multicultural Perspectives(芸術鑑賞—多角的視点において)」も120名の大所帯で、その7—8割が1&2年生の学生。専門も会計学、ビジネス、農業学、看護学等々とほとんどが「芸術分野」に関連のない学生達ばかり。また一般教養コースという性格上、教科書も充実しており、多くの本が出版されているが、内容は体系的にまとめられており、どの本をとっても目次を見る限り、大きくわけて5章に分かれて構成されていることが多い(例:1.What is Art? What is Art for?:美術とは何かなぜ必要なのか?2.Elements of Art & Principle of Design:美術の構成要素,3.Visual Art Media:美術の材料とプロセス 4.Architecture:建築&インテリア 5.Visual Records:世界美術史)。 美術を多様な角度から分析し、鑑賞批評そして理解する能力を育てる目的の元「視覚的読み書き能力(Visual Literacy)」を高めるための鑑賞コースとして発展してきた。

日本においては「鑑賞教育=感性教育」として捉えられていることと思うが、米国においては「鑑賞批評能力:美術を通してコミュニケーション能力とも言えるヴィジュアルリテラシー能力を高める教育」として認知されている。一般的にはこの能力は視覚的イメージを通して「他(文化)」を理解、その結果として自己(アイデンティティー)をも再確認する能力と理解されている。私の使用する教科書「World of Art」の著者であるセイヤー(Sayer)はこの能力のことを「”I like this or that painting.”You need to be able to recognize why you like it, how it communicates to you. This ability is given the name visual literacy (「私がこの絵が好きだ。」(とあなたが語る時)、あなたはどうしてその絵がすきなのか、そしてなぜそう思うのかを(あなた自身)知ることが必要である。それを発見し理解する能力のことをヴィジュアルリテラシーと言うのである。)と明言している。

私がはじめてこのコースのことを知ったのは、イリノイ大学(アーバナ•シャンペーン校)で大学院の学生だった頃。ある教授のリサーチアシスタントとしてその授業にはじめて参加した時「あっこんな方法もあったのか」と感激したのを今でもよく憶えている。一般教養のコースでありながら、一方的に教授から学生達への講義的授業ではなく、そこには「アートとは何か?そしてなぜ必要なのか?」を教師と学生の線を越えて討議する風景があった。教師はナビゲーターであって、一方的に指導する存在ではなかった。そこで見た授業風景と教師としての在り方が今の私のスタイルの原点ともなっている。「アートとは何か?」共通する答えの存在しない命題であり、難しくもチャレンジングな授業を展開することになる。学期はじめには、ほとんどアートに感心のなかった専門外の学生達。4ヶ月後その学期が終了する頃、私のオフィスのドアをたたいてくることがある。「自分にとってのアートの意味がわかったような気がする。」と。その時の私の顔と気持ちをご想像願いたい。「Glad to hear that!(それはよかった。)」と静かに微笑みクールを装いながらも、私の心は飛び上がっている。日本の大学教育の中でもこのような「鑑賞教育」が一般教養コースとして定着されることを願ってやまない。

さて、米国では大学において一般教養コースとして定着している「鑑賞教育」だが、義務教育(小中高)の美術教育の中で、特別に取扱われて指導されることは少ない。不思議なようだがもちろんそれには理由がある。これについては、また次回、連載最後の3月号で「日本の美術教育の方向性」への考察とともに言及してみたいと思う。

最後に、実はこの「4コマアート(カテゴリーB)」も鑑賞教育の一環としてのプロジェクトでもあり、毎学期、同コースの中でも課題として研究リサーチ論文と併せて提出させている。名作(アート作品としてその評価が定まっているもの)を一つ選び出し、その作品について調べ、その後そのイメージを広げ、4コマのアートとして「起承転結」の作品としてストーリーを展開させていく。まさにヴィジュアルリテラシー作品(^_^)。

今回はそんな鑑賞教育のクラスの学生からの作品2点をご紹介。ベースになった作品は2点とも米国アーティストとして著名なジャスパージョーンズ(Jasper Johns)の出世作「3つの国旗(Three Flags, 1958))」。3枚重ねのアメリカの国旗は見る人に向かって次第に小さくなるように重ねられている。当時米国は台頭する共産主義思想に対して、恐れをいだく典型的米国国民(愛国&国粋主義)に支持されるマッカーシズムというイデオロギーが荒れ狂う時。小さくなっていくアメリカ国旗の表現はアメリカの価値を低めるものとして批判の対象になったものである。

図1はそんな3枚重ねの国旗が4種類、整然と並べられている。この中実際の国旗は左上のイギリス国旗と右下のアメリカ国旗のみ。他の2つは同様のデザインをアレンジした架空の国旗である。意図するところは、ジョーンズのオリジナル作品以上に国旗の価値を軽減しているものとも読めるし、逆に「国旗=国」という観念は無意味なものであると揶揄しているようにも見える。さてどちらだろう。それとも別の深読みが必要か。図2は米国に留学するクェートからの学生の作品。上段左右に並べられた2つの国旗はおなじみのもの、日本と米国。下段はほとんどの人には馴染みの薄いものだろう。左下がクェート、右下がカリフォルニアの州旗である。実はこの学生はこれら旗に政治的な意味合いも暗喩の意味も含めていない。単純に自分の今一番身近な環境をジョーンズの作品をアレンジして旗で表現しているのに過ぎないとのこと。クラスの教師である私の国「日本」、現在住んでいる国「アメリカ」、自国「クェート」、そして実際の居住地「カリフォルニア州」。深い意味はないと言いながらそこに日本が入っているのが個人的にはとてもうれしかった作品。

余談だが、この数年中東からの留学生がやたら目につく。この鑑賞教育のクラスにも多く、最近では120名中20名以上がサウジアラビア、アラブ首長国連邦、そしてクェートからの学生達である。不思議に思って聞いてみると、中東では石油の渇枯を予測しており、それに代替するものを探すための知力作りとして選抜した優秀な学生たちを米国に送っているとの事。事実かどうかは別として興味深い話しである。

Sunday, December 5, 2010

最終版 教育美術連載 原稿(2010年12月号): 米国における多文化主義の真実: 「美意識」に表れるグローバリゼーション

下記「教育美術」12月号原稿の最終版です。図版は雑誌の方に掲載されていますので、そちらを原稿と一緒にご確認いただければ幸いです。徳

図1:図録27頁上段右「オレンジ、ピンク、それとも赤?」米国大学生作品(パステル)
図2:図録30頁上段左「あと5ポンド(2キロ)少しだけ」」米国大学生作品(パステル)
図3:図録30頁上段中央「マリリンあなたはどこへいるの」米国大学生(中東からの留学生)作品(マーカー)
図4:図録26頁上段右「アメリカの美(アメリカ何と美しき国)」米国大学生作品(油彩)
図5:図録30頁下段右「それは増殖続ける」米国大学生作品(コラージュ)

4コマアート巡回展示会作品紹介(12月号):
(仮題)米国における多文化主義の真実:
「美意識」に表れるグローバリゼーション
October 30, 2010
Masami Toku

この連載を書かせていただいて9回目、今年最後の原稿12月号である。毎回原稿を提出した後、だいたい次号の作品リストとそれに合わせた内容を頭に浮かべているのだが、その通りになった試しがない。同僚たちとの会話の中から、TVから流れてくる報道から急に別のスイッチが入り、思考がどんどんそっちの方へ。そうなるともうそれにとりつかれ元々の予定原稿には戻れなくなってしまう。最初からやりなおしそして涙。でも今回は違った。この4コマアートの公募作品解説を書き始めた当初から、必ず書こうと思っていたテーマがいくつかあるが、今回はその内の一つ「多文化主義」。これを元に「美意識(価値観)」の文化による相違について、「公募B」5作品を見ながら解説してみたい。

他の多くの国、例えば米国と異なり日本は国策として移民を受け入れる体制にはなっていないので、基本的には「多文化主義(multi-culturalisum))という概念は存在せず「単文化主義(mono-culturalism))に分類されてしまいがちである。が、これに「地方」をつけ「地方多文化」と置き換え、地方に視点を移し日本を俯瞰してみると多種多様な文化が存在することは疑いの余地がない。そう日本も多種多様な文化の国なのである。それでは「美意識」についてはどうか。時代に寄って変化はあるものの、現代においては「美意識」はひとつの価値観に支配されていることに気付く。おもしろいことに多文化主義をほこる米国においても、特に人に対しての「美意識(価値観)」に統一傾向が見えるという点がおもしろい。それがこの4コマにも如実に表れている。「美意識(価値観)」のグローバリゼーションである。

まず作品1「オレンジ、ピンク、それとも赤」(図録27頁上段右)。カリフォルニア出身のアーティスト 「ティエバウド(Wayne Thiebaud)」のカラフルな口紅の静物画を元に、多種多様な色の口紅で化粧する女性を誇張。それぞれが個性的で美しいことを言及している。図2と3は同じウォーホールの「マリリン」を元に全く別の2作品に変化させている。まず図2は現代アメリカが抱える若者病「拒食症」について。ビルボード宣伝広告によって誇張されたアメリカの美意識(例えば有名ファッション、カルビンクラインの病的にやせたモデルたち)によって視覚的にコントロールされた彼らの美意識には「健康美」という言葉は存在しないかのよう(日本も同様か)。図3は実はサウジアラビアからの留学生作品。アメリカのセックスシンボル「マリリンモンロー」に異なる国の女性の典型イメージを重ね合わせる衣装(ヘアピース)を付け変身させることによって、「美しさ」の価値観は文化によって異なることを訴えている。イスラムの黒いベールに隠されたマリリンの怪しい瞳だけが妙に色っぽい。図4&5はまた一般的に米国の抱える過食の問題。「ファーストフード」の味に慣らされてしまった味覚は一生かわらず、食のバランスを崩し、過食へと駆り立てる。拒食症も過食症も同じ病根を抱える現代病であり、これは米国のみならず日本を含め世界に広がりつつ有る、悪しき食のグローバリゼーションとも言えるかもしれない。

教育美術連載 (2010年12月号) 下書き: 米国における多文化主義の真実ーあくなき美の追求

下記は「教育美術」2010年12月号の下書きとして書き留めていたもの。最終版をこれを短くしたもの。教育美術を購読いただければ幸いです。
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4コマアート巡回展示会作品紹介(12月号):
(仮題)米国における多文化主義の真実:あくなき美の追求
October 30, 2010
Masami Toku

この連載を書かせていただいて9回目、今年最後の原稿12月号である。毎回原稿を提出した後、だいたい次号の作品リストとそれに合わせた内容を頭に浮かべているのだが、その通りになった試しがない。どういうわけか締め切り寸前に全然違う内容になってしまう。同僚たちとの会話の中から、TVから流れてくる報道から急に別のスイッチが入り、思考がどんどんそっちの方へ。そうなるともうそれにとりつかれ元々の予定原稿には戻れなくなってしまう。でも今回は違った。4コマアートの公募作品を見たときから、必ず書こうと思っていたテーマがいくつかあるが、今回はその内の一つ「多文化主義」を元に「美意識(価値観)」の文化による相違について、「公募B」5作品を見ながら解説してみたい。

他の多くの国、例えば米国と異なり日本は国策として移民を受け入れる体制にはなっていないので、基本的には「多文化主義(multi-culturalisum))という概念は存在せず「単文化主義(mono-culturalism))に分類されてしまいがちである。が、これに「地方」をつけ「地方多文化」と置き換え、地方に視点を移し日本を俯瞰してみると多種多様な文化が存在することは疑いの余地がない。「美意識」についてはどうか。時代に寄って変化はあるものの、現代においては「美意識」はひとつの価値観に支配されている。おもしろいことに多文化主義をほこる米国においても「美意識」特に人に対しての価値観がひとつという点がおもしろい。それがこの4コマにも如実に表れている。

まず作品1「オレンジ、ピンク、それとも赤」(図録27頁上段右)。カリフォルニア出身のアーティスト ティエバウド(Wayne Thiebaud)のカラフルな口紅の静物画を元に、多種多様な色の口紅で化粧する女性を誇張することで、それぞれが個性的で美しいことを言及している。図2と3は同じウォーホールの「マリリン」を元に全く別の2作品に変化している。図2は現代アメリカが抱える若者病。ビルボードによって誇張されたアメリカの美意識、やせることこそ美しいに踊らされた若者達(有名ブランドカルビンクレーン。拒食症に陥ってしまった若者達を皮肉っている。

「美意識」のグローバリゼーションである。

この原稿を執筆途中でNAEA(National Art Education Association:米国美術協会)からメールが入った。8月号の中で紹介した来年度シアトルで開催の学会発表へプロポーザルが選択されたとの通知である。3件申請した中2つ受理。その内のひとつが、幸いな事にこの4コマアートの日米比較分析。申請総数1,500件あまり、その中から通ったのが900件。3/17−20の4日間に渡って、美術教育に関するありとあらゆるテーマが理論と実践を交えて発表されることになる。2000年にロスアンジェルスで開催されてから10年振りに西海岸へ、それも初めてのシアトルでの開催。米国のみならず世界各地から約5千人余りの参加でにぎあう世界最大の美術教育学会。今から来年の春が楽しみ。

Wednesday, October 20, 2010

Continued: 教育美術連載 (2010年11月号): 子どもの描画に表れるグローバル化の波?:マンガ vs. アメリカンコミック

以下は実は教育美術(11月号)に書く予定で、最初に書き始めた原稿部分。予定語数をかなり超えそうになってしまったのと、内容がちょっと刺激的だったので、もっと柔らかい表現に変え短めにまとめて原稿を提出。でもせっかくなので、その部分をここにご紹介。ちょうど提出原稿の半分前半部分にあたりますね。表現がストレートすぎて失礼になるかとちょっと心配ですが、日米の美術教育現場に触れての正直な感想です。失礼な部分はご容赦くださいね。

......................
知った気になって以外と知らなかった事や、その変化に気付かずに昔の知識や体験で思い込んでいたということがままある。私にとって、日本の「美術教育」というのが、まさにそれ。渡米して20数年。私にとっての美術教育は、子ども時代を過ごした故郷奄美での図画工作であり美術教育。当然といえば当然なのだけど、私の中の「美術教育」はうん十年前、小中学校時代(毎週2時間)の生徒として学んだ美術の時間で時計がとまっていた。昨今ちまたでいろいろ日本の美術教育の現状を嘆く声を聞くようになったが、それでも義務教育の必須科目から姿を消して久しい米国の美術教育の現状よりは、日本の方がずっとまし、なぜ皆そう悲観するのか不思議にそしてぜいたくにさえ思っていた。

それがである。息子を日本で体験入学させるようになって6年、日本の美術教育の現場は、実は米国以上にひどいのかもしれないと思い始めるようになった。その理由はいくつかあるが、州毎地域毎に地域の実態毎に異なる教育を展開する米国と異なり、日本ではナショナルカリキュラムの理念の元、地域や教師の質に偏らない質の高い(?)美術教育を行っているはずであった。これが違った。むしろ共通の教科書の存在しない米国の方が理念が浸透し、それに基づいたカリキュラムが実施されているという事実である。また米国の小学校ですでに美術は必須ではなくなっている。その認識から米国の美術教育の実態を悲観する声につながっている。しかし2週間に一度専任の美術教師が指導する授業は午前中一杯(2−3時間)の集中授業。米国の小学校では担任が夫々の学科の中で美術的な要素を取り入れて授業を展開するのが一般的だが、それと別に美術専任教師が指導する美術の授業と住み分けているところが興味深い。また米国の場合(これは6月号でも簡単に触れたが)、中高で美術は選択である。が、その選択の在り方が日本での選択の在り方の週一度の授業ではなく、毎日選択の授業があるのである。この他、知っているようで知らなかった美術教育の実態が日米の比較においていろいろあるが、それはまた次の機会を待ちたい。

Saturday, October 16, 2010

教育美術連載 (2010年11月号): 子どもの描画に表れるグローバル化の波?:マンガ vs. アメリカンコミック

下記11月号のオリジナル提出原稿。
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図1:図録20頁下段左「街の明かり星降る夜」米国高校生作品
図2:図録22頁下段左「津波の猛威」米国高校生作品
図3:図録23頁上段「てんやわんやの生活」米国大学生作品
図4:図録24頁下段左「スーパーマンガ」米国大学生作品
図5:図録28頁下段中央「新しい始まり」米国大学生作品

4コマアート巡回展示会作品紹介(11月号):
子どもの描画に表れるグローバル化の波?:マンガ vs. アメリカンコミック

知っているようで以外と知らなかったこと(もしくは思い込み)というのがままある。今更であるが日米の美術教育の相違についても同様のことが言える。例えば、ナショナルカリキュラムのない米国と存在する日本という美術教育の理念システムの在り方。国によって定められた統一の学習指導要領で勧められる日本の美術教育と州によって異なるスタンダード(Standards=教育理念)で、さらに地域もしくは学校毎に異なる指導方法をとる米国。もちろんこの差は各国の社会的文化的背景を反映している結果である。が、米国の美術教育内で実際に仕事をしてみると、これが単純に割り切れないと思うようになってきた。確かに指導の方法論(カリキュラム内容)は異なるものの、根底に流れる美術教育理念は共通しているのである。現在1980年代に広がったDBAE (Discipline-based Art Education:ディービーエーイーと発音)がその中心を担っており、この理念は各州のスタンダードに現在色濃く反映されている。 DBAE の4つの理念「造形、美術&文化史、美学、批評」(Art making, Art History, Aesthetics, Criticism) を念頭にカリキュラムを作り、各教師がそれぞれの方法論で美術を指導するのが定着している。また、共通の教科書というものの存在しない米国だが、教科書会社というのは無数にあり、これらの教科書を開けてみるとそこにある美術教育理念は共通していることが多い。それは目次などから一目瞭然である。日本ではどうなのだろう?学習指導要領に沿って皆実際に指導しているのだろうか。「米国の方が理念的にはナショナルカリキュラムだね。」と言った日本の友人の言葉が印象深い。知っているようで知らなかった美術教育の実態が日米の比較においてもいろいろあるが、それはまた次の機会に。

さて中身が予定していたタイトルとどんどん離れていってしまいそうなので、ここで無理矢理もどすことにする。一方で、こどもたちの絵の世界を俯瞰してみると、国によって異なりその差が顕著とおもいこんでいたものが、結構その差がなくなってきていることに最近気付いた。これは明らかに情報の流動化がもたらした描画におけるグローバル化の結果?と言えなくもない。例えばこの4コマアートの作品群をみてみると、日本のマンガの影響が予想以上にこどもの描画の世界に広がっていることがわかる。10年前には見られなかった現象である。今月はそんな作品群を5点程図録の中からご紹介。図1&2は日本のマンガの影響( 大きな目、細い線だけの鼻等々)がその人物にしっかりと表れている。逆に図3&4はアメリカンコミック的な絵柄の作品。新聞の4コマ作品として出てきそうな絵柄の図3。図4はアメリカンコミックの代表格「スーパーマン」を元に、「スーパーマンガ」としたユーモア作品。絵にではなくコマ割にマンガの影響が出ている。図5は、絵柄そのものは写実的でアメコミ的な作品に見える。が、よく見てみると現在米国で最も人気のあるマンガアーティスト天野の絵柄で「源氏物語」を模写しているところが、日本のマンガとアメコミの融合ともいえる生徒作品。日本のマンガは日本というローカルから世界的へとグローバル現象となり、それが子どもや若者達の描画に「美意識の変化」として顕著にあらわれているのが今である。

Sunday, September 12, 2010

教育美術連載 (2010年10月号):戦争を知らない子ども達からのメッセージ

8月31日に偶然耳にしたオバマ大統領のイラク戦争終結宣言を聞いて、元々書こうと思っていた内容を急遽変える事にした。それが以下の原稿内容。(ただし、下書きの方です。最終版は近々出版の「教育美術10月号」を見ていただけれると、参考の描画とともによりわかりやすいかと思います。どうかよろしくお願いします。)今日は9月11日。あれから丸9年。2001年あの日のことは真っ青な空とともに今でも昨日の事のように思い出す。

この日のことはもうひとつのブログ "TokuToku Journey" の「9年目の9月11日」の中にも書いています。


図1:図録2頁左上「9月11日その後の世界」米国大学生作品
図2:図録26頁上段左「7年間の破滅(失われた時)」米国高校生作品
図3:図録9頁下段中央「名も亡き兵士」米国高校生作品
図4:図録16頁上段中央「核廃絶」日本中学校生徒作品

4コマアート巡回展示会作品紹介(10月号):戦争を知らない子ども達からのメッセージ
August 29, 2010

残暑の残る夕暮れ、ぼーっと日本のニュース(衛星放送)を見ていたら、オバマ大統領の演説が流れて来た。何かと原稿を書く手を休めて、聞き耳をたててみると、イラク戦争の終結宣言。思い起こせば、湾岸戦争が始まったのが1991年1月のこと。そこから数えるとほぼ20年にもなる。「世界の警察」を自称する巨大な軍隊を持つアメリカでは、戦争は常に身近な話題でもある。総兵力は約260万。その内正規の職業軍人が140万、残り120万が大学や企業に通いながら、定期訓練を受け、有事に呼び出しを受ける待機組。また経済的な理由から高校卒業とともに軍隊に入り、その見返りとして大学に通っている学生も結構な数に上る。実は私の一般教養クラス(芸術鑑賞学)にも数人いることを知ったのは、2001年の同時多発テロ事件の直後のこと。それまでは、そんな学生が自分のクラスにいることさえ知らずにいた。9月11日当日、ハイジャックされた飛行機が爆弾を積んで西海岸の大都市へ向かっているというゴシップが流れ、カリフォルニア州では大学を始め全ての公立学校は閉鎖となり自宅待機の状態。その数日後私の元にいくつかのメールが届いた。生徒の名前と戦地へ赴くためクラスからの正式な削除願いである。その中には直接本人から「また機会があったらクラスに戻りたい。」と書いてあるのもあった。胸がつまった。あれから10年。その後彼ら彼女等が大学に戻って来たかどうか私はまだ知らずにいる。そういう環境の中、戦争をテーマにした作品がアメリカの子ども達からも少なからず寄せられた。今回はその中4点紹介してみたい。「9月11日のその後(図1)」、これはこの4コマアート(公募B)を大学の美術教育の授業の中に入れるようになった最初の年2002年度作品。最も印象的な作品の一つ。ピカソの「ゲルニカ」を元に、9/11の際、実際に惨劇に巻き込まれたのは市民であることを訴えている。実はこの作品には裏話がある。作者のフィアンセ(軍人)が事件を受け当時イラクへ行ってしまっていたのである。自分の大切な人を戦争へ送り出さなければいけなかった彼女自身の気持ちから出来た作品。図2は同テーマ作品。中心となった著名作品はゴヤの「5月13日の死刑執行」。作品自体のタイトルは「7年間の破滅(失われた時)」とある2008年度作品。7年後の当時もまだイラクは戦争状態であることを示唆している。次の2点は「公募A作品。「名も亡き兵士(図3)」はフロリダの高校生作品。戦地へ赴く十代と思われる兵士が華やかに送られている。やはり大学奨学金支給をえさにリクルートされたのだろうか。そのシーンと重なるように兵士の最後の姿である墓とそこに刻まれた「Unknown<(無名)」という言葉。アメリカの現状を物語っている。最後は日本から中学生の作品「核廃絶(図4)」。原爆を実際にそれも2回も落とされた唯一無二の国、日本からのメッセージである。

Saturday, September 11, 2010

教育美術連載 (2010年9月号):主流派に属さない「おやっ?」な作品達

図1:図録13頁上段右「Rainbow: A little Happy Day(虹:ほんの少し幸せな日)日本小学生作品

図2:図録16頁下段右「生命(いのち)」日本中学生生徒作品

図3: 図録31頁下段「赤富士の真実」日本大学生作品

4コマアート巡回展示会作品紹介(9月号):

主流派に属さない「おやっ?」な作品達

July 31, 2010

Masami Toku

2008年から4コマアートを公募して3年、すでに千点近くの作品が日米から集まった。 「僕(私)たちの世界で今何か起こっているか」の主題のもと、自分たちの回りで起こっている事、小さな事大きな事に関わらず、気付いたことを4コマ(起承転結)の形で表現してみよう、ということだが、 先の8月号でもお伝えしたようにこどもたちの表現したテーマは、日米に限らず共通の傾向がある。「温暖化現象」や「大気汚染」を始め、「動物虐待(意図せずとも結果的にそうなったものも含む)」などなど現代社会に警鐘を促す、大きなテーマを描いているものが主流である。メディアの影響も大きいのだろうが、こどもながらに社会的問題を自分の目を通してきちんと捉えているところに驚かされる。が、これら主流派に属さない、そしておやっ何を伝えたいのかとおもわず興味をそそられるそんな作品にも時々出会うことがある。今回はそんな中から3点紹介してみたい。

Rainbow: A little Happy Day(原題)」(図1)。窓から差し込む光が、小学校の校舎の廊下だろうか、床に虹を映し出しているという情景を表現している。日常の中、偶然に出会った些細な出来事、そしてそんな小さな一瞬のことが一日を幸せにしてくれるという作品。そうそうこういう小さな幸せを心の支えに、私たちは生きていけるのよねと共感できるほのぼの作品である。実はこの作品、昨年2009年度奄美大島の皆既日食イベント関連(展示会&講演会)で来島してくださった少女マンガ家、萩尾望都(もと)氏が好きな作品として選んでくださったものでもある。

「生命(いのち)」(図2)は、花の咲くプロセスを通して命の輝きを描いた美しい作品。実はメッセージというより、コマ割の構図がとても日本的だったので、図録掲載に決めた作品。しかし、この作品テーマのいきさつを感じさせるような出来事に先日偶然出会った。この夏友人から奄美をテーマに作品を作り続けている奄美在住のとてもよいアーティストがいるので、一度会ってみないかとお誘いをうけて出かけた。まだ四十台の方で、子だくさん(八ヶ月から高校生まで5人)、数年前脳梗塞を煩い半身麻痺になり、木彫りのミニチュア作品を作られているとのこと。リハビリを兼ねて習い始めたという蛇味線(じゃみせん)をひきながら語る口調は穏やか、しかし作品を通して奄美大島の文化と歴史を紹介したいという熱い心を持たれた方でもあった。話しの流れで、お子さんの一人の作品が図録に載っていることを知り、改めて作品を見直し、思わずはっとした。この作品は彼の実際の体験(家族の出来事)を通して描かれたメッセージだったのである。

最後は暑い夏を涼しくさせる一筋の風のような作品「赤富士の真実」(図3)。図録の中にも作者の説明があるように、北斎の赤富士を逆さに見立てたら、夕焼けの雪山の間にたたずむ木々に見えたというもの。当たり前のように見えている情景が角度を変えて見る事により、全く別のものに見えてくる。静かなしかし示唆に富んだ詩情あふれる作品であり、多角的な視点で描かれている力作でもある。

4コマアート作品との出会いはまたその作品にかかわる人たちとの出会いでもある。今月はそれを感じさせる作品の中からいくつか紹介させていただいた。公募は締め切りなしの継続中。これからもいろんな作品に出会えることを楽しみに、日本での夏を終え、そろそろアメリカへの帰国の日が近ついている。

Friday, September 10, 2010

教育美術連載 (2010年8月号):4コマアート作品の比較分析&描画発達論考察

(写真1)2010年度参加者作品31点(マリーゴールド小学校6年生)

4コマアート巡回展示会作品紹介(8月号)

2011年度米国美術教育学会に向けて:

4コマアート作品の比較分析&描画発達論考察

July 2, 2010


先日7月1日(米国時間6月30日)締め切り寸前に来年度2011年度NAEA学会(National Art Education:米国美術教育)へのプロポーザルを提出。ほっと一息。毎年3月か4月に米国の都市で開催される米国(世界?)最大の美術教育関連の学会で、例年5千人前後の参加者がある。2011年度は、前回2000年ロスアンジェルスで開催されて以来、久しぶりに西海岸へ、それもNAEA創立(1947年)以来初めてシアトル(3/1720)での開催。カリフォルニア在住の私にとってはうれしい限り。はりきって同僚&友人達と太平洋を臨む地域である米国西部そして環太平洋文化諸国を中心とした美術教育を基軸にパネルディスカッションを組む事にした。題して「Ring of Fire Forum」。昔アイマックスシアターでパノラマドキュメントを見て知った地学用語「環太平洋火山帯」から拝借した。ちょっと気を衒(てら)いすぎ?と思わなくもなかったが、これでよいと皆にほめられたので調子にのってそのまま出した。何せ、NAEAは例年千数百件を超えるプロポーザルがあり、その中から約半分6百件が発表許可を得るという競争率の高い学会である。皆もそれをわかっていて、落ちることを想定して一人数件を申請するのが常。今回私は三件を申請。その中の一つとして、この巡回展示会作品4コマアートの比較分析進捗状況を発表することにした。この4月より誌上をお借りして執筆させていただいている4コマ作品の比較分析は思いのほか楽しく、期待していた以上に多くのことを発見することができた。特に作品のテーマや表現方法の相違には、各作品の根底にある文化/社会的背景の相違が強く反映されていることを再確認することができたのは収穫だった。この比較分析の発表は意義あることではないかと思う。プロポーザル題には「 Tradition and Innovation in Cross-cultural Analyses of Children’s/Adolescent’s Art (子ども/青少年の描画比較分析における伝統と革新性) 」とつけた。結果は今年末までにメールで通知されることになっている。

ということで、今回も前置きが長くなってしまったが、図録掲載の各作品の比較分析ではなく、全体的な傾向について今回は簡単に触れてみたい。2008年以降各地より作品を収集しているが、その中で2年続けて「カテゴリーA」作品を提供してくれた学校にチコ市マリーゴールド小学校がある(図録参照)。前回2008年度は5年生だった彼ら彼女等が6年生になり、その成長を2度目の作品から見る事ができた。その中で特に顕著だったものの一つに、4コマのコマ割の変化があった。前回の参加の際、ほとんどのコマ割が同じように4分割(上下2つずつ)だったものが、今回は多種多様なコマ割に変化していた。コマの方向の違い、そして異なる形のコマの組み合わせなど多岐に渡っていた。またコマのわく線も直線からギザギザ線など、作品内容や感情によって異なったものを使用したり、あえてコマ線を一部排除して、「3つのコマ+全体をひとつの背景コマ」の4コマとして表現しているものもあった。なぜこうも変化したのか。各人に取材をしていないので、詳細は不明だが、まずこれが2度目の作品提供であり、前回の展示会を通して他の作品(日本人生徒)を目にし少なからず影響を受けたことも原因ではないか。また前回が宿題として各自自宅に持ち帰り、個人で作品を作成したのと異なり、今回は授業時間を利用して、クラスの中で作成したことが一番の理由ではないかと思われる。クラスの中で同じ場所時間を共有する中での作品作成。お互いの作品を気にしながらの切磋琢磨の作成風景を想像するのはそれほど難しいことではない。結果たくさんのそして魅力的な作品が出来上がったのである。この他分析結果詳細については、来年3月までにまとめてみたいと思う。

これら同6年生の31作品をテーマ別に分類した結果は下記の通り(写真参考)。

Animal Cruelty (動物虐待)*直接の虐待だけでなく、魚乱獲など現在話題になっている人間の行為が結果として動物生物の破滅に関与している主題作品も含む)」9点, Global Warming (温暖化問題)」4点、「Disasters (災害惨事)」4点、 「Deforestation (森林破壊)」3点、「 Life Cycles (Time Progression:ライフサイクル)」3点, Pollution (大気汚染)」3点, Others (その他)*この中に音楽や美術が教科の中から削減されること異を唱えている作品もあった。」5点。

Thursday, September 9, 2010

教育美術連載 (2010年7月号):「ディベイト(討論)」の国アメリカ「沈黙は金」の国日本

図1:図録7頁上段右「選挙」バラク オバマ (Barrack Obama) vs. ジョンマッケーン(John McCain) 米国6年生徒作品
図2:図録21頁上段右「真実の恐怖」米国美術教育専門の学生作品
図3: 図録30頁上段右「変化」シェパードふぇりー(ブッシュからオバマへ)米国一般教養クラス学生作品

その他関連作品:

図4: 図録26頁下段左「アメリカ:全てはかーペットの裏へ」(ニクソン:ホワイトゲート事件、クリントン:モニカ スキャンダル事件、Martha Stewart:米国のカリスマ主婦脱税事件)
図5: 図録30頁下段左「僕をリーダーのところへ連れてってくれ」(毛沢東)米国生徒作品アンディウオーホール

4コマアート巡回展示会作品紹介(7月号)
ディベイト(討論)」の国アメリカ「沈黙は金」の国日本:学校(美術)教育において政治を語ることはタブーか否か

渡米し20年経つ。息子の成長とともに学校教育に参加するようになって、日米の教育内容一般そして授業のアプローチの違いを痛感するようになった。その一つが「ディベイトの国アメリカ 沈黙は金の国日本」である。米国では、子どもでも社会問題に対して積極的に関わり、問題を調査、自分なりの回答を見つけるという問題解決能力を高める参加型アプローチをとることが多い。それを最初に感じたのが、1990年初頭、イリノイ州シャンペーン市で小中学校の美術教師として4年間教鞭をとっていた時のこと。当時大統領選挙選の真っ最中、こどもたちを二大政党である共和党と民主党のふたつのグループにわけ、それぞれの論点をまとめ長所弱点を討論させる授業を行っていた。自分の考えを論理的に説得力のある形で話すためには、異なる意見でも相手の話しをよく聞き、そしてまた理解することが欠かせない。討論の基本である「聞く」と「話す」のプロセスを学ぶという小学校3年生の授業。そのテーマが大統領選というところがアメリカ的である。政治の問題は大人の問題と子ども達に介入させないのが日本であるとしたら、早いうちから社会の問題を積極的に考え、参加させるというアメリカの社会的教育方法ともいうべきものに驚き、こういう教育を子どものときから受けた人たちにはとてもかなわないと正直その時思ったものである。 それから既に15年以上経つ。

さて個人的なことで恐縮だが、我が故郷奄美大島は普天間基地移設の候補地の一つとして徳之島が候補にあがり、今その渦中にある。この問題について、例えば、中学高校の授業の中で、誘致/非誘致のふたつの可能性でそれぞれの論点を絞り出して討論をする授業など行われる可能があるだろうか。日本の国民性を考えた時、日本の学校教育の中、例えば、社会、もしくは総合の時間で、これら感情的になりがちな問題を客観的に見つめ、両方の立場から討論討議をうながすような授業を実施できるような日が来るだろうか。正直想像しにくい。日本の教育にこれから必要なのは、将来生きて行くために、自分で考え自分で答えを見つけ出す能力を育てる教育であろう。それに美術教育は貢献できるのか。 世界は答えの簡単に出せない問題であふれている。

ということで、やっと本題に。4コマアート「僕らの声:世界で今何が起こっているのか」の日米から集まった作品中、今月は政治にからむ作品をご紹介。日本から参加した作品の中にはほとんど見る事ができなかったが、米国ではちょうど2008年の大統領選と重なった事もあり、「公募AB共に、選挙や政治をテーマにした多くの作品が集まった。以下図録に掲載されたものの中からの紹介である。

図1(図録7頁上段右)は「公募A」作品。「選挙」という題の小学6年生の作品。民主党オバマと共和党マッケーンの両陣営。それを応援する民衆の喧噪振りを幼い絵柄ながら的確に表現している。その他は皆「公募B」作品。図2(図録21頁上段右)米国美術教育専門の学生作品「真実の恐怖」。有名なムンクの「叫び」を元に、8年続いた共和党ブッシュの後、再び同党からマッケーンが選ばれたしまった時(当時の仮定)の恐怖を描いている。図3(図録30頁上段右「変化」)は米国で人気のシェパードフェリーの版画作品を元に、ブッシュからオバマへの政治変換を表しているが、ブッシュの絵三点の下に夫々「惨劇」「恐怖」「戦争」と記載しているのに、最後のオバマの絵の下に何も記載されていないところが逆に暗示的である。米国一般教養クラス学生作品。その他関連作品として、図4(図録26頁下段左「アメリカ:全てはかーペットの裏へ」) はバンクシーの作品を元に、政治的スキャンダルそしてそれを隠蔽しようとした行為を笑った作品(元米大統領ニクソン:ホワイトゲート事件、元米大統領クリントン:モニカスキャンダル事件、マーサ シチュアート:米国のカリスマ主婦脱税事件)。最後図5(図録30頁下段左)は、ご存知アンディウォーホールのシルクスクリーン「毛沢東」を元に4コマに仕上げた教員養成プログラムの学生作品。タイトルは「僕をリーダーのところへ連れてってくれ」。作品に隠された意味を皆さんで想像してみてください。私はというと、、、(本人に聞いているので、正解を知っていますが、いろいろな解釈ができるかと思います ^_^)

Wednesday, September 8, 2010

教育美術連載 (2010年6月号):「カテゴリーB」において人気のアート作品は?

図1:図録18頁「温暖化現象」米国生徒作品
図2:図録19頁上段左「時間は溶け去って行く」米国生徒作品

その他関連作品:
図3: 図録27頁下段右「所有、摂取、膨張、そして知覚」米国生徒作品

4コマアート巡回展示会作品紹介(6月号):
「カテゴリーB」において人気のアート作品は?

April 26, 2010
Masami Toku

今月は「カテゴリーA」ではなく、「B」作品の紹介をひとつ。これは「A」同様、「世界は今どうなっているのか?」というテーマで作品を4コマで作りあげるのは同じだが、4コマ(起承転結)の中に必ず1コマ、著名な作品を入れるところが異なっている。作成方法の流れとしては、まず著名なアートを一つ選んだ後、そのアート作品を自分の表現したいメッセージ内容に合わせ、オリジナルの持つ意味を変化発展させ、効果的に使うというところがポイント。結果としてオリジナル作品の意味から想像を超えたストーリが生まれている場合も多く、こどもたちの想像力の豊かさに改めて感嘆の思いで一杯になることもしばしばである。

小学高学年(5&6年生)を対象とした「カテゴリーA」と異なり、この「B」は、高校生以上に向けて主に公募したが、「著名作品」という概念に共通の作品を選んでいる傾向もあり、その際、同じようなメッセージが表現されている場合と、全く異なる場合の2つに分かれていてとても興味深い。

さて下記に紹介する三作品は人気作品の一つ、ダリの「記憶の固執(Persistence of Memory, 1931)」、を元に4コマに作られている。もちろんポイントはダリの絵の中の溶けている時計であり、そのイメージから生徒自身ストーリーを膨らませているのは共通しているが、全く異なるメッセージの三作品に仕上がっている。

図1のタイトルは「温暖化現象」(図録中18頁)。溶けていく地球、水位があがって行く都市、そしてその中で全てが溶けさっている様子を示すことで、この作品が作成された2008年以降、2010年現在ますます世界で議論されている注目のテーマを表現。パステルカラーの優しい色調と繊細な線の絵柄を通して、静かにしかし力強くそのメーッセージを伝えている。

一方、図2の「時間は溶けさっていく」(図録中19頁上段左)は、溶け去っている時計で時間の経過を表し、「誕生、成長、老い」そして最後のコマにダリの絵で、全ては同じ運命を辿ることを示唆している。

最後に、図3の「所有、摂取、膨張、そして知覚」(図録中27頁下段右)はとてもユニークな作品で、たぶん日本の生徒では思いつかない作品かもしれない。単純に見るときのこ(毒?)を食べた少年(青年)が幻覚(溶けている世界)を見ているシーン。この作品を見た瞬間アメリカでは一様に笑いが出る。このきのこをドラッグと置き換えて見てみるのは深読みしすぎだろうか。そう読むとこの作品の中に現代アメリカの若者の問題も浮き彫りにされているような気がする。

最初の二作品は高校生の作品。美術を選択科目として取っている学生達である。日本では美術科目の存続について議論が伯仲しているが、アメリカでは中学(&高校)で既に必須でなく、選択になって久しい。ただ選択といえ、日本と少し方向が異なる。美術を選択した場合、毎日美術の授業があるのである。これもひとつの選択科目としての方向性であり、結果としてかなり質の高い授業が展開されている。

最後の作品は私の教えている一般教養のクラス「Arts100: Art Appreciation- Multicultural View (芸術鑑賞学—多角的視点にて)」の生徒の作品。小論課題の一つとして毎学期授業の中で与えているもので、論文とこの4コマアートの提出を義務づけている。120名の学生中、約7−8割が高校出たての新入生で、アートの専門外の学生達である。この芸術鑑賞学のコースは米国の大学では一般教養の講義コースの一つとして定着しており、「What is Art? What is Art for?(アートとは何か?アートは何のためにあるのか?)を学ぶことになっている。優れた教科書もたくさん出ている。 日本の大学では「芸術鑑賞学」はどのように取り扱われているのだろうか?

Friday, September 3, 2010

教育美術での連載 (2010年5月号):公募作品「カテゴリーA」で日米とも一番多かった主題は?

続けて下記5月号のドラフト原稿です。教育美術をもし既にご覧になっている方がいらしたら、どの部分が変更になっているかお気づきでしょうか?自分で読んでみて、「間違い探し」ならぬ「変更探し」を楽しんでいます。

図1:図録7頁下段右「シロクマのお昼寝」米国生徒作品

図2:図録10頁上段右「北極グマの憂鬱」日本生徒作品

その他関連作品:

図3: 図録8頁下段左「シロクマが死んでいく」米国生徒作品

図4: 図録11頁上段左「温暖化現象」日本生徒作品

図5: 図録11頁上段中「温暖化現象」日本生徒作品

図6: 図録11頁上段右「北極ぐま」日本生徒作品

図7: 図録17頁上段左「ホッキョクグマと地球温暖化」日本生徒作品

4コマアート巡回展示会作品紹介(5月号):

公募作品「カテゴリーA」で日米とも一番多かった主題は?

April 4, 2010

2008年「ぼくらの世界で今何が起こっているか?!」をテーマに日米の子どもたちから作品を公募した結果、集まった「カテゴリーA(上記のテーマを元に自分で選んだ主題を4コマで表現)」の作品中、一番多かったのは日米両国とも「グローバルウォーミング(温暖化現象)」。当時メディアでさかんに話題になっていた問題でもある。きっかけは元米国ゴア副大統領を環境問題の論客として作成されたドキュメンタリー映画「不都合な真実 (An Inconvenient Truth, 2006)」。同作品が翌2007年第79回アカデミー賞において長編ドキュメンタリー賞を受賞、そして環境問題の啓蒙に貢献したとして同ゴア氏へのノーベル平和賞が授与されたのは周知の事実である。私たちの生活の中から排出される二酸化炭素の増加によっておこるオゾン層の破壊、その結果、世界的レベルで温暖化が加速され、多くの問題が起こると警鐘され始めていた。世界で起こっている問題について思いを巡らせたとき、子ども達にとって最も身近な主題が「温暖化現象」だったのだろう。それでは同主題について、日米でどのような表現の作品が集まったのか。表現方法に相違はあったのだろうか。

おもしろいことに日米に限らず、多くの同主題作品が「シロクマ」を中心にストーリーを作り上げていた。(図1&2参照)これはちょうど温暖化現象の問題の一例として、テレビ等で良く取り上げられていたのが、北極の氷が加速度的に溶け始めているということ、そしてその結果氷を横断してえさのアザラシを捕りに行くシロクマがえさをとれなくなり、餓死していく現象がさかんにテレビ等で繰り返し放送されたことが、「温暖化=シロクマの餓死」というイメージに直結し、子ども達の記憶の中にインプットされてしまったのだろうと想像できる。

図1と2を見比べてみるとその主題やストーリー展開に日米に共通していることが多いことに気付く。それでは顕著な違いはあるだろうか。この二作品は4コマの割り方は同じであるが、読む方向に違いがあるのがわかる。図1の米国作品は、上段から初めて左から右へ、そして下段へ同様に左から右へと進む。図2の日本作品は、右段から初めて上から下へ、そして左段の上から下へと読み進むようになっている。もちろんこれは英語と日本語の言語の違いから来ていることはすぐに理解できる。実はその他にもう一つおもしろい違いがあるのである。図1の作品が正面からシロクマを見るようにして描かれているのと異なり、図2の作品は俯瞰的に描かれている。そして2コマ目(右段下)のシロクマが意図的に枠からはみ出るように(カットされて)描かれているのである。私が10年以上前に、日米のこどもの描画表現の違いとして、空間表現の相違を述べたことがあるが、同じ表現をこの4コマの中にも見つけることができてちょっとうれしい気分。やはり文化による表現方法の違い、そして日本人特有の表現方法は確かに存在するのである。

Thursday, September 2, 2010

教育美術での連載 (2010年4月号):4コマアート展示会紹介

前にこの4月から美術教育雑誌「教育美術」誌上で連載を始めることになったことをお知らせしたことがあるが(4/23記載)、今日その担当の目等(めら)さんから許可をいただいて、出版済みの原稿(ただし出版された原稿ではなく、その前のドラフト原稿)をここに掲載させてもらうことにした。興味のある方は、最終版もあわせて、教育美術誌上でご覧になっていただけれるとうれしいです(^_^)。批評等いただけるともっとうれしいのですが。

以下その最初4月号の原稿です。

4コマアート巡回展示会紹介 (教育美術2010年4月号掲載)

この4コマ(マンガ)アート公募展のきっかけとなったのは2001年からカリフォルニア州立大学チコ校の教員養成コースの中で実施した美術教育カリキュラムが元になっている。

当時米国の美術教育ではヴィジュアル(ポップ)カルチャー(Visual pop-culture)がトレンディーなテーマとして盛んに話題となっていたが、ヴィジュアルカルチャーの理論的な解釈と視覚イメージを通して社会をどう読み取るかの批評的アプローチが中心で、それに伴う効果的な実践カリキュラムについてはまだ試行錯誤の状態であった。

一方日本においては、当時ヴィジュアルカルチャーの中心を担っていたマンガが、日本を超え世界へと広がり、世界中のこどもたちを魅了し始めた頃でもあり、それが米国の美術教育界でも話題になり始めた頃であった。

それはまた、こどもたちを魅了してやまないマンガの人気の理由、そして子どもの認知や美意識に与えるマンガの影響など、マンガそのものがアカデミックなテーマとして話題になりはじめていた時期とも一致する。

他国のコミックには見られない、日本のマンガ独自の魅力とは何なのか。それがコミック共通の3つの構成因子(絵、言葉&吹き出し、コマ)のマンガにおける特異的発達並びにその使い方の妙にあるということは現在周知の事実である。またグラフィックノーベル(Graphic Novel)というマンガの代名詞にも現れるように、マンガで表現されるストーリー展開の質の高さが、男女年齢を超えて世界を魅了する要因になっている。

そこでこのマンガの特徴を使ってその魅力を損なうことなく、どのように美術教育カリキュラム(レッスンプラン:Lesson Plan)の中に採用していくのかを考えていくことになった。一般的な描画の発達論、例えば、リード、ローウェンフェルド、ウィルソン (Read, Lowenfeld, Wilson) を見るまでもなく、発達の過程でこどもたちが必ず通るパターンの一つとして、「絵の中に物語を作りあげる」という特徴が普遍性としてある。そこでその物語を、一枚の絵ではなく、パネルの連続した絵という形で、それもマンガ(コミック)形態の特徴の一つである4コマという形で表現するカリキュラムを作成してみた。「4コマ」つまり「起承転結」の形で表現すること、日本では一般的な4コママンガの表現方法だが、偶然に米国において、文章を組み立てる基本的な方法論が「起承転結」と全く同じ4つの展開「Introduction, Supporting sentence, transition, and conclusion」であることを発見し、これを文章ではなくヴィジュアル(Visual)、つまり絵を使って4つの展開パターンを表現する、日米共通のヴィジュアルリテラシー(Visual Literacy)を高める効果的なカリキュラムとして実施することとした。

2001年カリフォルニア州立大学チコ校の教員養成プログラムの中で、カリキュラムの一例として構想から始めたこの4コマアートレッスンが7年という年月を経て、一般公募という形で世界から作品を集めるという形で展開していくことになった。その成果を展示会として紹介できることをとてもうれしくまたありがたく思うと共に、今後巡回として展開していく中で、巡回各地でまた新たな作品が集まり、各地のこともたちの声が大きく響き渡り、私たちの世界がまた新たな視点で再認識されることを、そしてよりよい世界になっていくことを、少しロマンティックすぎると思いながらも願わずにはいられない。こどもたちに未来があるか、そしてその未来を私たち大人はちゃんと残していけるのだろうか。こどもたちの声を通して今私たち自身が真剣に考える時期に来ているのだと切に思う。

Monday, July 5, 2010

南海日日新聞(6月?日):父と交わした私の夢ー Community College in 奄美

以下南海日日新聞原稿の下書き。実際にアップされた原稿はこれよりかなり短くなっていますが、ここにはオリジナルを掲載します。

父と交わした私の夢:
コミュニティカレッジ in 奄美

三回目のそして最後の投稿、何を書こうかなといろいろ考えていたが、アメリカから日本をそして奄美を俯瞰して早21年、奄美の再生「教育の島」「人材&知的財産の島」としての私の夢を最後にご紹介したいと思う。

1991年12月渡米して2年半、久しぶりに奄美に帰郷した時のことである。今は亡き父が当時市役所を定年し、いろいろな市民活動に参加していた頃、私に意見を求めてきたことがあった。「奄美の将来を考えて奄美大島活性化の何か良いアイディアはないか。」と父。「コミュニティカレッジを奄美に作ったら」と即答した私。当時私はアメリカの4年大学に編入したものの、大人数のクラス編制に嫌気がさし、少人数制で実践向きのコミュティカレッジ(2年制)に再編入しなおし、その地域に根ざした教育システムのあり方に感激していた頃だった。日本にはない、その地域主導地域活性型の生涯教育カレッジを日本にもと思ったのは正直な気持ちだった。

さて「コミュニティカレッジ」は その名の通り「地域大学」で、日本でいう短期大学のようなものであるが、 短大以上の大きな役割がある。大まかにいうと3つ。1)一つは日本のように短大卒の「準学士号」をとる事ができるというもの。がその後、4年生大学の3年に編入するケースがほとんどであることから、2)4年大編入のための準備学習の場としての役割が2つ目。もう一つは、3)生涯教育の場としての役割。短大の学位や四年大学への編入を希望するのではなく、自分の学びたいコースをいつでも好きな時にとることができるというもの。人間ある程度年を経ないと、自分の本当に学びたいことに気付かないことが多いが、ここではその生涯学習の夢を叶えることができる。

その後、私の意見を聞いた父がそれを活動グループの中で紹介したのかどうか、知る由もなく、普段あまり会話のない父娘のまま父が逝って4年経つ。が、その会話を父としたことだけは不思議と今でも覚えている。

さて前置きが長くなった。1990年代当時は単なるアイディアとしての提案に過ぎなかった荒唐無稽の私の夢が、米国の大学で仕事をするようになって10年、息子の体験入学として奄美に頻繁に帰郷するようになって7年、それほど荒唐無稽の夢とも思えなくなったのである。直接のきっかけは、昨年2009年奄美での皆既日食プロジェクトとして「アマミーナ」を立ち上げ、「未来を担う子ども達へのメッセージ」として、いくつかのイベントを実施したことに始まる。あたふたと短期間の内に実施したイベントプロジェクトだったが、実行委員会の献身的な活躍と努力で無事成功の内に終了し、その後ということで、なんと2010年夏新たに女性を中心とした「NPOアマミーナ」をスタートさせることになったのである。奄美大島は他に例を見ない自然&文化遺産を元に多くの日本内外の研究者が毎年訪れていることは周知の事実。立ち上げの主旨はこれらの人々そして大学と協力関係を作り、奄美関連の主題を中心に生涯学習としての「学びの場」を作ることである。もちろん私が所属するカリフォルニア州立大学もその協力関係の一つとして構想案に入っており、先に述べたコミュニティカレッジの3つの目的以外に、 奄美と海外を直接結ぶ4つ目の目的がここに生まれることになる。

まだまだ夢の段階である。しかし叶わない夢ではない。2010年夏、私はそのコミュニティカレッジ立ち上げを最終目的として、その前段階ともいえる「夏期集中講座」準備のため帰郷している。カリフォルニア州立大学が中心となり近隣の国立大学(例えば、鹿児島大学や琉球大学)との連携のサテライトキャンパスも将来的に視野にいれている。2011年夏をターゲットに現在各助成金申請と講座の内容の確認、そしてそのための人材&場所確保を探る奄美での暑い夏を迎えることになる。また新たに多くの出会いが期待できる夏になりそうなうれしい予感。子どものころ、何か事を始めるたびに「またお前が仕切ったのか」とよく父に怒られたもの。その父は鬼籍に入った今、草葉の影であいかわらずの私を見て、あきれているだろうかそれとも笑ってみてくれているのだろうか。

Sunday, July 4, 2010

南海日日新聞(5月26日付):ディベートの国アメリカ

以下南海日日新聞5月26日付けの記事(オリジナル版):

メディア&ヴィジュアルリテラシー教育:
「ディベイト(討論)」の国アメリカ、「沈黙は金」の国日本

渡米して日本を外から眺めるようになって、おやそういえばと日米の違いに気付くことがある。その中でも息子の成長とともに学校教育に参加するようになり、日米の教育内容そして授業のアプローチ方法の違いを感じることがある。特にその違いを感じたのが、今回のコラムのタイトルにもある「ディベイトの国アメリカ」であり、それを反映する教育方法である。

米国アメリカでは、学校教育を通して子ども達も社会問題に対して積極的にかかわり、自分自身でその問題を考えるように指導しているのを日常的に感じる。もちろん教師が教科書を元に説明指導するのは日米同じであるが、違いはその後。
その時々のテーマを元に、自分自身で研究調査し、結果を発表、そして討論というように、 社会の問題に対して自分で考える積極参加型のアプローチという点。それを初めて実感したのが、渡米して数年経った1990年代初頭、イリノイ州シャンペーン市の学校(小中一貫校)で美術教師として4年間教鞭をとっていた時のことである。その時大統領選挙の真っ最中、子ども達を二大政党である共和党と民主党の2つのグループにわけ、それぞれの論点をまとめ長所弱点を討論させる授業を行っていた。自分の考えを論理的に説得力のある形で話すためには、異なる意見でも相手の話しをよく聞き、そしてまた理解することが欠かせない。討論の基本である「聞く」と「話す」のプロセスを学ぶという小学校3年生の授業だった。そのテーマが大統領選というところがアメリカ的である。政治の問題は大人の問題と子ども達に介入させないのが日本であるとしたら、早いうちから社会の問題を積極的に考え、参加させるというアメリカの社会的教育方法ともいうべきものに驚き、こういう教育を子どものときから受けた人たちにはとてもかなわないと正直その時思ったものである。 既に15年以上前のことである。

今奄美は普天間基地移設の候補地の一つとして徳之島が候補にあがり、奄美大島は今渦中にあると聞く。この問題について、例えば、中高校の授業の中で、その是非を問う討論が授業として行われることがあるだろうか。 世界は簡単に答えの出せない問題で溢れている。日本の学校教育の中で、これら感情的になりがちな問題を客観的に見つめ、両方の立場から討論討議をうながすような授業を積極的に行うことはあるのだろうか。それができない限り、日本の教育では世界を前に堂々と語れる未来を担う若者はなかなか出てこないのではないだろうか。

情報化社会の現在、メディア(TV、新聞、インターネットなどの情報源)から日々発信される多くの情報の中から、どれが本当に必要で真実の情報なのかを読み取る能力のことをメディアリテラシーといい、特に視覚的イメージを通して真実を認知する能力のことをヴィジュルリテラシーという。(*「リテラシー」の元来の意味は「読み書き(識字)能力」)。社会問題を積極的に考え自分の言葉で語らせるように指導するアメリカの学校教育で今最も重視しているテーマの一つがこれである。

写真はそのヴィジュアルリテラシー教育の一環として美術教育の中で実施した4コマアート展示会。「こどもたちの声:世界は今どうなっているか?」というテーマの元、こどもたちに身近に存在する問題を選び出し、それを「起承転結」の4コマの絵で表現するというもの。2008年にチコ市でスタートしたプロジェクトが、昨年2009年夏奄美大島皆既日食イベントのひとつとして、文化センターでも奄美市近郊の学校にも参加してもらって実施。その後再度 チコ市の小学校6年生に再度参加してもらい展示会を実施。写真(5月5日)はその時のものである。この後、作品はニューヨークへと向かう。

Friday, June 4, 2010

美術教育関連NPO法人 CANVASの依頼原稿:米国の美術教育の現状について

美術教育関連NPO法人 CANVASの依頼を受けて米国の美術教育の現状について原稿を書くことになった。ちょうど学年末の忙しい時期に重なってしまったので、思ったより少々しんどい思いをしたけれど、書い進めていくうちにのってしまって、どのへんでまとめようか(止めようか)まよってしまった。思えば書く事は一杯あるなあと思いながら、このへんでというところで止めたので、少々消化不良気味の原稿になってしまった。それでも結構それなりにまとめられたのではないかと思う。いつものごとく、Informative(情報満載)な内容を目指しました。

<コラム シリーズ第2弾>海外の美術教育事情について

第3回アメリカ

(カリフォルニア州美術教育プログラムを元に) 

Friday, April 23, 2010

教育美術での連載 (2010-2011):子どもの視点ー世界は今どうなっているのか?

「教育美術」という月刊誌がある。何度か単発で米国の美術教育事情などの情報を書かせてもらっている。私がイリノイ大の大学院生だったころからだから、すでに10年以上のおつきあい。今回2008年度から細々とはじめた巡回展示会「僕らの声:世界はどうなっているか?(Children's Voices: What's Going on in Our World?)」のことを毎月連載で書かせてもらうことになった。前々から連載で書きたいと思っていたので、とてもありがたい。

昨年2009年度より、USSEA(United State Society for Education through Art)の児童画展示会ディレクターとしての仕事を引き受けているので、このUSSEAや InSEA (International Society for Education through Art)学会に合わせて、この展示会も巡回することになっている。その作品公募を日本でやるためにも、この連載の仕事はとてもありがたい。しかしそれ以上に、今まで集まったこどもたちの作品を毎月テーマを決めて選び出し、比較することによって、そのこどもたちの属する社会や文化の相違も分析紹介させてもらっている。千から千五百字のそれほど長くないコラムの中に、毎月いろいろ書かせてもらっている。これがやってみて、自分が想像していた以上におもしろい。

毎月の締め切りに追われながらも、今月はどの絵をそして、どのように比較分析、そして社会事情をからませながら、説明できるか、自分でも結構はまってやっている。

来年の3月までの一年間書かせてもらうことになっているので、一年通して振り返ってみると、結構おもしろいものになるのではないかと自分でも楽しみ。

Sunday, April 4, 2010

6年間の体験学習集大成:名瀬小学校の卒業式に参加して

息子の6年間の体験学習の集大成として、名瀬小学校の卒業式(平成22年3月24日)に参加させてもらった。

またこの体験を元に、奄美大島のローカル新聞「南海日日新聞」に日米の学校教育の相違のようなものを中心に記事を三回(月一)書かせてもらうことになった。

下記がまず最初の文である(校正前のオリジナル)。もともと日本語での連載に興味を持っていたので、こういう形で書かせてもらうのはとてもうれしく有り難い。「教育美術」も先月から一年間、4コマアート作品の日米比較という形で連載を書かせてもらっている。今年はそういう年になりそうで、自分でもちょっとどきどきしている。

6年間の体験学習総まとめ:名瀬小学校の卒業式に参加して思うこと

先日3月24日(水)息子の海(かい)が名瀬小学校を卒業した。(いや正式には「卒業式に参加させてもらった」ということになる。)この日多くの子ども達がそれぞれの小学校を卒業したことだろう。それを見送る親にとってもそれぞれの卒業式であり、悲喜こもごもの思い出がかけめぐる特別な日であったことと思う。私たちの場合も例外ではない。

1998年1月27日アメリカ生まれアメリカ育ちの息子の海(かい)。アメリカ人を父にそして日本人の私(旧名瀬市出身)を母に持つ日系アメリカ人の男の子、属にいうハーフである。その息子を我が母校名瀬小学校に体験入学させることになったのは6年前、2004年(平成16年)こと。毎年アメリカの学校が終了するのを待ち、初夏6月過ぎに帰郷して夏休みが始まるまでの約一月間の体験入学。当時日本語がほとんどできなかった息子にとって、日本の学校での学習は不安だらけ。しぶる息子をなだめすかし、まずは一回試してみようと入学させることにした。それが6年も続き、夏は奄美帰郷と息子のカレンダーの中にしっかり組み込まれ、毎年6月の日本帰国を楽しみにするようになるとは、当時は想像だにしなかったことである。

これは暖かく迎えてくださった名瀬小学校の先生方、並びにクラスメートの友人達、そしてそれを支えてくださった保護者の方々のご厚意のおかげであるのはもちろんのこと、奄美大島の美しい自然と環境が息子の帰国帰郷を促すモチベーションになってくれたのは言うまでもない。 うん十年前、子どもだった私に取って退屈以外の何ものでもなかった故郷奄美大島が、今時を超えてアメリカ生まれ育ちの息子にとって輝かしい日本での故郷になってくれたことが、とてもうれしくありがたい。奄美出身の多くがそうであるように、18歳高校卒業と同時に名瀬を離れた私にとって、奄美大島は長らく遠い過去として記憶にとどまるだけの故郷に過ぎなかった。それが、息子の体験入学を通して、再度故郷奄美大島の価値を再確認するきっかけになったことは、私自身にとってもとても幸せなことだった。

さて息子の体験学習を通して、日米の学校教育についても多くの相違点を発見した。今回の「卒業式」もその一つ。実はアメリカには一般的に小学校の卒業式は存在しない。その理由は義務教育の違いからきている。例えばカリフォルニア州では、幼稚園から高校までの13年間が義務教育。それも日本の「6−3−3制」のように、はっきり分かれているわけでなく、地域によって異なる。主に「7−2−4」制(幼少7年、中学2年、高校4年)と「6−3−4」制(幼少6年、中学3年、高校4年)の二種類がある。 ということで、義務教育の最後が高校であることだけが共通なので、その高校卒業の時に初めて正式に卒業式を実施というのが一般的である。

名瀬小学校の卒業式に出させていただき、 舞台の上で、日頃着慣れない制服に身を包み、ぎくしゃく歩きながら卒業証書を受け取る息子を見、これで親子三代同じ小学校を卒業したことになるなと改めて感無量。

日米それぞれの学校事情があり、それぞれの長所や問題点があるようだが、卒業式に関して言えば、子ども達の新たな旅立ちのことを思うと、このような式典は個人的には良い事のように思う。等々、今後また機会があれば日米の学校教育の違いについて紹介できればと思う。

Thursday, March 5, 2009

日米の比較において:美術教育にみる論文の傾向と方向性 (2005年)


もう4年も前になるのだが、永守先生からご依頼を受けて、美術科教育学会誌「美術教育学」26号 (2005年出版)の掲載論文18編を批評させてもらったことがある。正直とにかくしんどい作業で2005年の1月、日本に帰国したおり、ひと月ほど中野区立図書館に通い缶詰になって、書き上げた記憶がある。

既に査読された上で、学会誌上に掲載されたものを、米国で美術教育を受けた私が、つまり日本の美術教育の論文傾向に疎い私が批評する事自体が僭越であることは確か。とは思いつつ、「いや米国で教育を受けた徳さんの客観的批評が必要なんです。」と永守先生におだてられ、木に上ってしまいました。(客観的批評がこんなにしんどいとは、論文を読み始めてすぐに引き受けなければよかったと後悔しましたね)

しかしながら、正直日本の美術教育における研究傾向に興味があったのも事実。そこで、多岐にわたる研究論文の中身そのものの善し悪しを批評するのは不可能なので、日米の研究方法論の比較をしながら傾向を探ってみたいと思った。

米国では研究の方法が正しいかどうかによって、おのずと導かれる結論の信憑性そのものが問われることになるので、研究方法論の研究 (Research Methodology)はとても大事。特に、博士課程においては 「Qualitative & Quantitative Methodologies (質的&量的方法論)」は必須の学問。私はどうだったかというと、すべてを文章で叙述し、論理的につめていく「質的方法」は英語がハンデの私にとって、数字で客観的に証明できる「量的方法(統計学)」はやはり最良の方法論。結果的には「量的方法」をもとに「質的方法」でカバーという方法をとりました。特に母校であるイリノイ大学 (University of Illinois at Urbana-Champaign)は方法論研究では定評のある大学院大学だったので、量的&質的ともにとても良い先生が揃っていて、、、いやいや鍛えられました。

(そういえば博士課程では美術教育関係のコースではなくて、自分の研究テーマをサポートするために、研究方法論をはじめ認知心理学や比較言語学なんてのをとってましたね。今思うとそれがとてもよかったかなあ、、、その時の蓄えで今指導していますね。そろそろ蓄えもつきてきたので、もう一度学生にもどって勉強したいと思う今日この頃。しんどかったけど、振り返ってみて、勉強に専念できたというかせざるを得なかったあの10年、そしてその頃出会えた学友達は宝です  ^_^)

「家政婦は見た!!!」ならぬ「徳は見た!日本の研究傾向とその方法論」さてさて日本の美術教育界にはどういう傾向があるのでしょうか?興味のある方は下記をクリックして本文へどうぞ!(自分でいうのも何ですが、涙がちょちょぎれるくらいの労作です。この原稿を書いていた頃を思い出すとあの寒い東京の冬が目に浮かびます >_<,,,)

*オリジナルの草稿文全文(ただし各論批評は省略)はここをクリック!(PDF)(実際に学会誌に掲載されたオリジナル原稿は見つけることができなかったので、その前の草稿をここにリンク。後半部分はまだ添削してないブレーンストーム状態。見つけ次第最終版に差し替えます。)

2008年第32回InSEA世界大会概要集(校閲)奮闘記


下記、月刊『教育美術』12月号(11月末発行予定)に書かせていただいた『教育美術』12月号特集「InSEA世界大会in大阪を振り返る(仮)」の拙稿「第32回InSEA世界大会概要集(校閲)奮闘記」からの抜粋です。(*全文はこちらからクリック。PDFでリンクしてあります。)

特に英文で学会発表のためプロポーザルを執筆するにあたっての注意点を少し書かせてもらいましたが、頁の都合で多くは書けなかったので、注意点1、2、&3の下にそれぞれ追記(黄緑字です!)、そしてその原稿の最後に追記メモ書きいたしました。(ご参照の程。)

「大会に参加された方々は、五百頁余にも及ぶ分厚い概要集(日本語英語の二カ国語表示)を手にとられ、その大きさと質に驚かれた方も多いのではないでしょうか。その中一般公募の英文概要、約450件すべてを校閲編集したのが、実は米国からのボランティア五人の校閲メンバー(北カロライナ大のアーノルド博士、オール氏、加州大チコ校のコットナー博士、同校の学生アリッサ、アリソン、マウラ。写真参照)。プロポーザル数は二百件を超えることはないだろうという大方の予想をうらぎり、はるかに多い五百余件の募集が大阪には寄せられた。 これらを自分の仕事や学業と併行しながら、なおかつ英文校閲しただけではなく、プロポーザルの条件にあうよう編集作業も含め、約一月半で仕上げてくれた校閲メンバーにはただただ感謝の一言。

さてプロポーザル(概要)の英文校閲に携わり、 いくつか留意すべき点を下記に箇条書きに記すことをお許し願いたい。 今後プロポーザルを英文で作成する際に少しでも役立てていただければ幸いである。

1.プロポーザル規定条件の遵守: 通常プロポーザルは規定の語数(InSEA大阪では150字以内)の中で研究目的•方法論•結果(中間報告)、そしてこの発表を通して何を討議したいのかを明示することを求められる。特に英語ではこの目的(何のための研究そして発表であるのか)は不可欠。

(*追記)日本人、海外からの参加者に限らず、結構これを無視して勝手に書いていらっしゃる方が多かったのですね。それと日本人の方の場合、これはもう言語的問題というか日本語の特徴なので、日本人である私としては言いたいことはよくわかるのですが、文の最後まで読まないと、何を発表したいのかわからないというのも少なからずありました。まず何の研究で何を発表したいのか(結論)を先に明記。そしてその方法論等を後にというのが定型で、失敗しないプロポーザルの書き方です。たった150単語の中にすべてを箇条書きしなくてはいけないので、簡潔に明記が鉄則です。

2.専門用語の定義(意味)の明示:美術教育を専門とする関係者の学会であっても、筆者の意図する専門用語の意味を皆が共有しているとは限らない。簡単な説明もしくは例を示す必要がある。美術教育関係以外の人に読んでもらい意味が把握できるかどうか確認するのも良いかと思う。

(*追記)そうこれも良くあるケース。たぶん日本人的は発想として、こんな皆が知っているような事をわざわざ説明するのもどうかと思われるかと思いますが、皆さんが使っている専門用語の意味を皆が共通認識しているとは限らないことが多いのですね。すくなくとも簡単にどういう意味でご自分が使っているかを箇条書き(もしくは研究者の名前をそばに付記)にして、こういう意味、と示すのは必要だと思います。それに同じ単語でも専門によって使われ方が異なるケースもままありますので、異なる専門の方々が集まる学会等では必要です。

あっそうそう私は日本語になってしまっているカタカナ外来語の意味を理解するのに苦労しました。日本語でかけるものはやはり日本語で書いてほしいと思います。だいたいカタカナは、外来語であるということを示す、とても便利は言語形態ですが、そのオリジナルがどこの言語であるかまでは示せないので、大変です。せめてオリジナルの言語をやはり付記してください。例えば「ヒエラルキー (hierarchy)」。日本語で「階層」とか書きましょうよ。だいたい「ヒエラルキー」とは発音しないです。「ハイラーキー」です。一例ですが。(私も日本語の語彙力が衰えてきているので、このようなブログとか会話ではついつい出てしまいますが、論文等の公式文書にはできるだけカタカナを使わないように拙い努力をしております。)

3.ネイティブ(英語を母国語とする人)に内容確認: 文法が正しいからといって生きた文章であるとは限らない。その文章が英語として通じるかどうかの確認は必須。

(*追記)そうなんです。また校正者によって校正編集の癖、好みがありますから、例えネイティブの方に編集してもらってあっても、また別の人に見てもらうと、編集されたりしますので、どうかがっかりされないように。(私の原稿なんて、主人(英語の修辞学専門)に何度なおされたことか。米国在住20年の私がそうですから、、、、)ということで、第三者にきちんと見てもらうというのは、必須です。(日本語の論文であってもそうだと思いますので)

あっそれとです。日本人の参加者には英文と日本語の二カ国語での提出が義務づけられていましたが、日本語と英語のプロポーザルの中身が一致していない方もいらっしゃいましたよ。最初は日本語から私が翻訳しなおそうかとも思ったのですが、全部で500件のプロポーザルでしょ。時間が押し迫ってる中、ご本人に返却して書き直してもらう時間もないということで、主人と相談して、日本語を読まずに、英文だけを見て、それを英語としてなりたたせることに集中いたしました。(ということで、見る人が見れば、この日本文と英文とちょっと違うんじゃない?と思われる方もきっといらっしゃることでしょう。それはこういうことです。ご了承の程。

 最後に大学の美術教育学部の中、もしくは大学院レベルにおいて、英文でプロポーザルを書かせるのを課題として訓練する必要性を感じる。将来を担う学生達にも今後グローバルな視点から日本の美術教育を外にも発信していってもらいたいと思う。

(*追記)これはもう絶対に大学授業内で必須にすべきだと本当に徳は思います。たった150単語、されど150単語なんですね。この短い文の中に、いかに明確に自分の研究内容をそして発表したいことをきちんと記載できるかどうかは、とても大切な事ですし、長ーい英論文を書く前に、これでまずトレーニングすることをお勧めします。

追記コメントは以上です。最後に、インシア参加者の皆さんはプロポーザル提出の後、それがどのように校正されているのか、確認された方は少ないと思いますので、もう一度インシアの概要集を御覧になって、ご自分の英文がどのように校正編集されたのか一度御確認いただければと思います。皆さんそれほど変わってない(もしくはプロの方もしくは英語のネイティブの方に提出前、編集をお願いしているのでそのまま掲載されている)と思われるかもしれませんが、実はほとんどの方のものを、多少なり編集してあります。私の記憶では日本人の方の提出されたプロポーザルで校正せずにそのまま掲載したのは、1、2件しかありませんでしたので。次なるプロポーザル提出にはこの校正編集文をご参考に、お役にたてていただければ幸いです。

Friday, February 27, 2009

日本巡回少女マンガパワー展図録について


写真は2008年3月、友人で大学教授のフレンチーがフルブライト研究費で来日した際、夏目房之介氏に取材した時のもの。左から息子の海(10歳)、レストラン「エッグファーム」のオーナーのキミさん、フレンチー、彼女の元学生で日本滞在中のマイケル(今回彼女の通訳件研究助手?)、そして夏目氏。(*他の関連写真はここをクリック!Flickr写真サイトにリンクしますよ ^_^)

下記2008年2月14日に日本で発売された「少女マンガパワー!巡回展示会」図録の中に収められた私の原稿の中より「あとがき」部分の抜粋。夏目房之介さんに「あの最後の部分は名文です。感動しました。」と、ほめていただいた(^_^)。たぶんこれからもいろいろ文を書き続けることになると思うけど、こういう風に夏目さんにほめていただくのは、たぶんこれが最初で最後のことだと思うので、記念にここに載せてみます。(*全文はPDF版でここからリンク。Please click here to get the full article (PDF)!「あの部分 ^_^!」以外に興味のある方は、クリックしてみてください。)

少女マンガ!ガールズパワー!: 北米 巡回少女マンガ展示会を終えて 
(A North America Touring Exhibition of Girl’s Power! Shojo Manga!:
Its Contribution & Influence to Visual Pop-Cultural Society)

あとがき(日本巡回に向けて): Toward to the Japan Tour in 2008

日本本土から遠く離れた奄美大島で生まれ育った私にとって、東京はあこがれの地、そして、アメリカ、ヨーロッパははるかかなた夢の世界であった。当時の奄美大島—東京間は、今の日本—米国(例えば成田—サンフランシスコ)よりずっとずっと精神的に遠かったのである。そんな子ども時代、月一で本土より船便で送られてくる月刊マンガ雑誌から得る情報がすべてだった。気が遠くなるような長い夏の一日、白い砂浜の上に一人、遠くに海峡をわたる船を眺めながら、マンガのストーリーに夢を乗せ、はるか未来を夢見る少女だった。そんな私にとって、少女マンガは夢をとどけてくれる唯一の媒体だったのである。うん十年後の今、こうして遠く太平洋を越え、米国で生きていることに感慨を覚える。今思うと少女マンガの夢見る世界が私を外の世界へと駆り立ててくれたのかもしれない。

For me who grew up in Amami Ohshima (island) far from the main land, Japan, Tokyo was an ideal metropolitan. And America and Europe were far way from the reality in my dream. In those days, the distance between Tokyo and Amami was mentally and psychologically farther than that of Japan and the US (e.g. Tokyo and San Francisco). In my childhood, a monthly manga was only media to get the updated information that was shipped to bookstores in Amami from the Mainland Japan. For example, during a long day sometime in summer, I was sitting on white coral beach, looking at a boat in the ocean, and I was dreaming my future with the story of shojo manga. I was one of a dreamy girls as other girls were. For me, it might be the story of shojo manga itself that encouraged and pushed me to go beyond the dreamy line to come to the US.

たかがマンガされどマンガである。「少女」という時代ははるかに遠くなってしまったが、それでも少女マンガは私がかつて夢見る夢子だった少女時代につれもどしてくれる。今はもう初恋の相手の顔を思い出せなくなってしまったが、あの時の切ない気持ちだけは昨日のように思い出せる。かつて等身大の自分自身として読んでいた少女マンガのストーリーを、今度はかつての少女だった私自身を回想しながら懐かしく、そしてほろ苦く読むことができる。そうマンガは読み手の年齢によって、同じストーリーを一度ならず二度も三度も別の状況で読めるおいしいメディアなのである。

Just a manga, however, it is manga. Although my shojo period was far passed away, the shojo manga brings me back to me to the dreaming period when I was a child. I don’t remember the face of my first’s love anymore, but I still remember my own sentimental feeling how I felt for him as it is almost just yesterday. I used to read the story in shojo manga by overlapping my own things. Now I can read the story to cherish my own sweat and bitter memory how I was when I was a girl in those days. Yes, manga is a very delicious media that can repeat to read the same story as a visual novel more than one time depending on the readers’ ages.