2011年新年号原稿(下書き)をここにご紹介。今回で10回目。いよいよ私の最後の原稿が近づいてきました。次回2月号は飛ばして、3月号が最後の原稿となります。これは下書き原稿でイメージ抜きのものですので、最終原稿の方はぜひ「教育美術」雑誌をお買い求めいただき、ご覧になっていただければと思います。感謝。(今回は少々わがままを言わせていただきいつもよりちょっと長めです ^_^)
図1:図録29頁下段左「三つの国旗」米国大学生作品(コラージュ)Jasper Johns
図2:図録29頁下段右「四つの旗」」クウェートからの留学生作品(コラージュ)
4コマアート巡回展示会作品紹介(2011年1月号):
日本の鑑賞(感性)教育 vs. 米国のヴィジュアルリテラシー教育*
December 3, 2010
Masami Toku
2011年謹賀新年。今年最初のそして10回目のトピックは「鑑賞」、日米の鑑賞教育への理念そしてそのアプローチの相違について。
カリフォルニア州立大学チコ校で「芸術鑑賞学」のコースを受け持って今年で12年になる。このコースは米国において一般教養の一つとして、美術専門外の学生を対象に「芸術鑑賞=ヴィジュアルリテラシー (Visual Literacy)」教育コースとして定着しており、多くの学生が取っている。私の教えるコース「Arts100: Art Appreciation-Multicultural Perspectives(芸術鑑賞—多角的視点において)」も120名の大所帯で、その7—8割が1&2年生の学生。専門も会計学、ビジネス、農業学、看護学等々とほとんどが「芸術分野」に関連のない学生達ばかり。また一般教養コースという性格上、教科書も充実しており、多くの本が出版されているが、内容は体系的にまとめられており、どの本をとっても目次を見る限り、大きくわけて5章に分かれて構成されていることが多い(例:1.What is Art? What is Art for?:美術とは何かなぜ必要なのか?2.Elements of Art & Principle of Design:美術の構成要素,3.Visual Art Media:美術の材料とプロセス 4.Architecture:建築&インテリア 5.Visual Records:世界美術史)。 美術を多様な角度から分析し、鑑賞批評そして理解する能力を育てる目的の元「視覚的読み書き能力(Visual Literacy)」を高めるための鑑賞コースとして発展してきた。
日本においては「鑑賞教育=感性教育」として捉えられていることと思うが、米国においては「鑑賞批評能力:美術を通してコミュニケーション能力とも言えるヴィジュアルリテラシー能力を高める教育」として認知されている。一般的にはこの能力は視覚的イメージを通して「他(文化)」を理解、その結果として自己(アイデンティティー)をも再確認する能力と理解されている。私の使用する教科書「World of Art」の著者であるセイヤー(Sayer)はこの能力のことを「”I like this or that painting.”You need to be able to recognize why you like it, how it communicates to you. This ability is given the name visual literacy (「私がこの絵が好きだ。」(とあなたが語る時)、あなたはどうしてその絵がすきなのか、そしてなぜそう思うのかを(あなた自身)知ることが必要である。それを発見し理解する能力のことをヴィジュアルリテラシーと言うのである。)と明言している。
私がはじめてこのコースのことを知ったのは、イリノイ大学(アーバナ•シャンペーン校)で大学院の学生だった頃。ある教授のリサーチアシスタントとしてその授業にはじめて参加した時「あっこんな方法もあったのか」と感激したのを今でもよく憶えている。一般教養のコースでありながら、一方的に教授から学生達への講義的授業ではなく、そこには「アートとは何か?そしてなぜ必要なのか?」を教師と学生の線を越えて討議する風景があった。教師はナビゲーターであって、一方的に指導する存在ではなかった。そこで見た授業風景と教師としての在り方が今の私のスタイルの原点ともなっている。「アートとは何か?」共通する答えの存在しない命題であり、難しくもチャレンジングな授業を展開することになる。学期はじめには、ほとんどアートに感心のなかった専門外の学生達。4ヶ月後その学期が終了する頃、私のオフィスのドアをたたいてくることがある。「自分にとってのアートの意味がわかったような気がする。」と。その時の私の顔と気持ちをご想像願いたい。「Glad to hear that!(それはよかった。)」と静かに微笑みクールを装いながらも、私の心は飛び上がっている。日本の大学教育の中でもこのような「鑑賞教育」が一般教養コースとして定着されることを願ってやまない。
さて、米国では大学において一般教養コースとして定着している「鑑賞教育」だが、義務教育(小中高)の美術教育の中で、特別に取扱われて指導されることは少ない。不思議なようだがもちろんそれには理由がある。これについては、また次回、連載最後の3月号で「日本の美術教育の方向性」への考察とともに言及してみたいと思う。
最後に、実はこの「4コマアート(カテゴリーB)」も鑑賞教育の一環としてのプロジェクトでもあり、毎学期、同コースの中でも課題として研究リサーチ論文と併せて提出させている。名作(アート作品としてその評価が定まっているもの)を一つ選び出し、その作品について調べ、その後そのイメージを広げ、4コマのアートとして「起承転結」の作品としてストーリーを展開させていく。まさにヴィジュアルリテラシー作品(^_^)。
今回はそんな鑑賞教育のクラスの学生からの作品2点をご紹介。ベースになった作品は2点とも米国アーティストとして著名なジャスパージョーンズ(Jasper Johns)の出世作「3つの国旗(Three Flags, 1958))」。3枚重ねのアメリカの国旗は見る人に向かって次第に小さくなるように重ねられている。当時米国は台頭する共産主義思想に対して、恐れをいだく典型的米国国民(愛国&国粋主義)に支持されるマッカーシズムというイデオロギーが荒れ狂う時。小さくなっていくアメリカ国旗の表現はアメリカの価値を低めるものとして批判の対象になったものである。
図1はそんな3枚重ねの国旗が4種類、整然と並べられている。この中実際の国旗は左上のイギリス国旗と右下のアメリカ国旗のみ。他の2つは同様のデザインをアレンジした架空の国旗である。意図するところは、ジョーンズのオリジナル作品以上に国旗の価値を軽減しているものとも読めるし、逆に「国旗=国」という観念は無意味なものであると揶揄しているようにも見える。さてどちらだろう。それとも別の深読みが必要か。図2は米国に留学するクェートからの学生の作品。上段左右に並べられた2つの国旗はおなじみのもの、日本と米国。下段はほとんどの人には馴染みの薄いものだろう。左下がクェート、右下がカリフォルニアの州旗である。実はこの学生はこれら旗に政治的な意味合いも暗喩の意味も含めていない。単純に自分の今一番身近な環境をジョーンズの作品をアレンジして旗で表現しているのに過ぎないとのこと。クラスの教師である私の国「日本」、現在住んでいる国「アメリカ」、自国「クェート」、そして実際の居住地「カリフォルニア州」。深い意味はないと言いながらそこに日本が入っているのが個人的にはとてもうれしかった作品。
余談だが、この数年中東からの留学生がやたら目につく。この鑑賞教育のクラスにも多く、最近では120名中20名以上がサウジアラビア、アラブ首長国連邦、そしてクェートからの学生達である。不思議に思って聞いてみると、中東では石油の渇枯を予測しており、それに代替するものを探すための知力作りとして選抜した優秀な学生たちを米国に送っているとの事。事実かどうかは別として興味深い話しである。