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Sunday, February 1, 2009

Diversity in Art: Voices from the Minority Culture of the Amami Islands in Japan

下記、教育美術誌「東西南北(締切:1/14/2003)」に掲載の原稿。

以下の文章もまた2002年3月号「教育美術」内の「東西南北」に掲載させていただいたものである。内容は大学と美術館との連携ともいうべき展示会ワークショップ開催の経緯と結果報告のようなものになってしまった。渡米してから長年の夢であった故郷奄美大島の文化と芸術を米国にて紹介することができたのもひとえに多くの人々の協力があったからである。感謝。この文の最後にも書いたがこの展示会を準備していたころはもう二度とこういった大それたことは計画しないなどと本当に誓ったものである。大学の仕事と並行しながら似非学芸員(もしくはプロジェクトディレクター)になってしまった私はほんまもんの学芸員の方々の苦労を実感したのである。が、、、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」か「いつまでたっても学ばんやっちゃー」の私は2004年2月現在、前回以上に大きな米国ツアーの展示会を計画中である。テーマは前回と打って代わって「日本のポップカルチャー」関係。詳細はまた「教育美術」で紹介させていただければなどと密かに思っている。乞うご期待。

Diversity in Art: Voices from the Minority Culture of the Amami Islands in Japan

米国で開催された奄美大島展のご紹介

 昨年の秋、カリフォルニア州立大学チーコ校キャンパスにて、新学期を飾るイベントとして日本の着物についての少々風変わりな展示会を開催することができたので、ちょっとここにご紹介。

 テーマは「芸術における多様性日本におけるマイノリティ文化、奄美大島からの声」。日本語に直訳すると少々後込みしてしまいそうなテーマだが、要するに、日本文化とは米国の多くの皆さんが思うように単一民族による単一文化では決してなく、米国同様多文化国家であり、地域毎にそれぞれの風土に根差した芸術が存在するのだよ、ということを奄美大島の芸術文化を通して米国の人々に紹介するの目的であった。

 この展示会の詳細を紹介する前に、なぜこのような企画を考えついたのかのいきさつを少々お話ししたい。将来他国で日本の地域文化を紹介するイベント等を企画する際の参考に少しでもなれば幸いである。私が渡米したのは1989年夏。日本では昭和から平成にと元号が変わり、中国では天安門事件がおき、ドイツではベルリンの東西の壁が取り壊されと世の中が大きく音をたてて変わり始めた変動激動の年。そんな年に10年間勤務してきた会社を辞め、留学という名目で渡米した私であるが、留学生活を初めてみて痛感したことが一つ。一般的に日本人が米国に対して興味を持っているのと比べると米国人は日本のことをほとんど知らないし、余り興味も持っていないという事実である。日本のメディアには昔も今も相も変わらず毎日のように米国のことがニュースになるが、当時米国では日本のことなど、ほとんど話題にならなかったものである。また人々の持つ日本のイメージの画一的なことにも驚かされた。米国人にとって日本とはせいぜい二つの都市で代表されるイメージ、すなわちテクノカルチャーの中心都市東京か歴史伝統の町京都、この二つの何れかのイメージがほとんどであった。日本の芸術文化はそんな単純なものではないぞと米国在住の日本人の中で憤慨したのは私だけではなかったはずである。

 そんな訳で、いつかチャンスがあったら我が故郷奄美大島を通して日本文化の多様性を紹介したいなと思っていたのである。その初めての機会は以外と早く訪れた。1995年。その当時私はイリノイ大学(アーバナシャンペーン校)の美術教育の大学院生だったが、隣町にあるイリノイ州立大学付属の日本人土曜学校の教師も勤めていた。日本人学校の校長は三菱自動車の副社長氏が兼任。その夫人が地域の日本文化振興に貢献なさっており、夫人の集められた第二次大戦前後の日本の着物を元に開催される展示会のお手伝いをすることになったのである。日本の着物については一般常識並みの知識しか持っていなかった私が、着物の着付けの資格を持っているというだけの理由で、展示会用の着物の選択から資料調査に至るまでお手伝いをすることになったのは、今思うと不思議な縁である。長い準備期間を経て開催にいたったのは1998年の夏。地域の皆さんの協力のおかげで、2ヵ月に渡って展示会を開催することができ、また好評を博すことができたのは幸運としか言いようがない。

 この経験から、展示会に関する準備開催のノウハウを学んだ私は、日本の着物の多様性というテーマで奄美大島紬に関する展示会開催への夢が膨らんでいったのは言うまでもない。1999年、カリフォルニア州立大学チーコ校で職を得た私は、早速その準備に入った。開催時期、開催場所、そして経済的援助をどのようにして得るのか。奄美大島紬をどうやって長期に渡って無償で借りることができるのか。大学で教鞭を取り、論文等のノルマを抱えながら、クリアーしなければいけない問題は山積。しかし案づるより産むが安し。大学側の協力で開催時期場所は難無く決定。懸念していた大島紬貸与の件も父がかつて市役所の観光課に在籍していた関係で知己を得、大島紬無償貸与の厚意を受けることができた。最後に残る大きな問題である資金調達に関しては、まず大学内にプールされている研究資金に応募することを検討したが、展示会開催費用は該当されないということで、外部の文化基金を検討。幸いにカリフォルニア州パルアルト市(サンフランシスコの隣町)に基点をおくクリスティンセン文化基金がアジアに関連する芸術文化振興の助成を行っていることを知り、2002年2月に資金援助を申請。また、学生を中心とした文化イベントを支援する大学内の学生文化基金へも資金援助を申請。結果幸いなことに、両基金から援助を同年5月に受けることができ、総額で日本円にして三百万円余の資金を得ることができた。

 以上のような過程を経て2002年秋、「日本の文化芸術の多様性」という共通テーマの元、奄美大島という地域を主軸に、「大島紬展」、「写真展」「浮世絵」を大学内の3つのギャラリー、美術館で同時開催する運びとなった。さらに関連イベントとしてレセプションを含む8つのワークショップ(着物の貴付け、お茶会、ギャラリートーク等)を展示会開催期間中(9/3〜26)に平行して行った。

これらの展示会は日本の地域文化としての奄美の文化芸術の美しさを紹介するのが主ではなく、奄美の文化芸術のルートを問うものでもあった。奄美大島という小さな島の文化が海のシルクロード(「道の島」ともいう)という東アジアからの交易ルートを通して日本本土と他のアジアの文化がどのように混合して開花していったのか、そしてそれが今後どのように変化していこうとしているのか。過去から未来へとアジア全体の歴史の中で奄美の文化芸術の流れを知ることは、また米国における文化芸術のルーツを考えることにも繋がると信じたからでもある。

その趣旨のもと、メインである大島紬展は、大島紬特有の伝統的な「染め」「柄」の種類とモダンデザインとを比較展示し、その歴史を紹介した。写真展では島の報道写真家として奄美大島の変化を30年以上に渡って撮り続けてきた越間誠氏を招待し「奄美の印象」という題材で奄美大島の「暮らし」「自然」「宗教」「祭」という4つのカテゴリーにて奄美の歴史文化を紹介した。さらに大島紬と比較する目的で大学所蔵の版画コレクションの中から、「浮世絵のなかの着物」というテーマで大学内の版画ギャラリーで日本の18、19世紀の浮世絵展を開催した。

 大学内の3つのギャラリーが同じテーマで展示会を開催したことは大学創立以来のことであり、話題性もあり大盛況。美術史、アジア学、比較文学等の授業の中でも関連して取り上げられ、学生達がペンノートを片手に展示場を熱心に見て回っているのが印象的であった。展示会終了後もまた地域の団体からのお誘いで日本文化の紹介にと必死の思いで着物を貴、あちこちを歩き回っている私である。また、準備期間中はもう二度とこんな大変な企画はしないなどとうそぶいていた私だが、次回は日本の最北南端の文化の比較、いやいや日本のヴィジュアルカルチャーの紹介かな、などと今から自分で自分の首をしめに入っている私でもある。


 

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