父と交わした私の夢:
コミュニティカレッジ in 奄美
三回目のそして最後の投稿、何を書こうかなといろいろ考えていたが、アメリカから日本をそして奄美を俯瞰して早21年、奄美の再生「教育の島」「人材&知的財産の島」としての私の夢を最後にご紹介したいと思う。
1991年12月渡米して2年半、久しぶりに奄美に帰郷した時のことである。今は亡き父が当時市役所を定年し、いろいろな市民活動に参加していた頃、私に意見を求めてきたことがあった。「奄美の将来を考えて奄美大島活性化の何か良いアイディアはないか。」と父。「コミュニティカレッジを奄美に作ったら」と即答した私。当時私はアメリカの4年大学に編入したものの、大人数のクラス編制に嫌気がさし、少人数制で実践向きのコミュティカレッジ(2年制)に再編入しなおし、その地域に根ざした教育システムのあり方に感激していた頃だった。日本にはない、その地域主導地域活性型の生涯教育カレッジを日本にもと思ったのは正直な気持ちだった。
さて「コミュニティカレッジ」は その名の通り「地域大学」で、日本でいう短期大学のようなものであるが、 短大以上の大きな役割がある。大まかにいうと3つ。1)一つは日本のように短大卒の「準学士号」をとる事ができるというもの。がその後、4年生大学の3年に編入するケースがほとんどであることから、2)4年大編入のための準備学習の場としての役割が2つ目。もう一つは、3)生涯教育の場としての役割。短大の学位や四年大学への編入を希望するのではなく、自分の学びたいコースをいつでも好きな時にとることができるというもの。人間ある程度年を経ないと、自分の本当に学びたいことに気付かないことが多いが、ここではその生涯学習の夢を叶えることができる。
その後、私の意見を聞いた父がそれを活動グループの中で紹介したのかどうか、知る由もなく、普段あまり会話のない父娘のまま父が逝って4年経つ。が、その会話を父としたことだけは不思議と今でも覚えている。
さて前置きが長くなった。1990年代当時は単なるアイディアとしての提案に過ぎなかった荒唐無稽の私の夢が、米国の大学で仕事をするようになって10年、息子の体験入学として奄美に頻繁に帰郷するようになって7年、それほど荒唐無稽の夢とも思えなくなったのである。直接のきっかけは、昨年2009年奄美での皆既日食プロジェクトとして「アマミーナ」を立ち上げ、「未来を担う子ども達へのメッセージ」として、いくつかのイベントを実施したことに始まる。あたふたと短期間の内に実施したイベントプロジェクトだったが、実行委員会の献身的な活躍と努力で無事成功の内に終了し、その後ということで、なんと2010年夏新たに女性を中心とした「NPOアマミーナ」をスタートさせることになったのである。奄美大島は他に例を見ない自然&文化遺産を元に多くの日本内外の研究者が毎年訪れていることは周知の事実。立ち上げの主旨はこれらの人々そして大学と協力関係を作り、奄美関連の主題を中心に生涯学習としての「学びの場」を作ることである。もちろん私が所属するカリフォルニア州立大学もその協力関係の一つとして構想案に入っており、先に述べたコミュニティカレッジの3つの目的以外に、 奄美と海外を直接結ぶ4つ目の目的がここに生まれることになる。
まだまだ夢の段階である。しかし叶わない夢ではない。2010年夏、私はそのコミュニティカレッジ立ち上げを最終目的として、その前段階ともいえる「夏期集中講座」準備のため帰郷している。カリフォルニア州立大学が中心となり近隣の国立大学(例えば、鹿児島大学や琉球大学)との連携のサテライトキャンパスも将来的に視野にいれている。2011年夏をターゲットに現在各助成金申請と講座の内容の確認、そしてそのための人材&場所確保を探る奄美での暑い夏を迎えることになる。また新たに多くの出会いが期待できる夏になりそうなうれしい予感。子どものころ、何か事を始めるたびに「またお前が仕切ったのか」とよく父に怒られたもの。その父は鬼籍に入った今、草葉の影であいかわらずの私を見て、あきれているだろうかそれとも笑ってみてくれているのだろうか。